昭和40年9月14日 朝の御理解
昨日、一昨日でした、伊万里の竹内先生が、お参りして見えられました。そして、竹内先生のおじさんに当たられる方が、ブラジルに行っておられます。南米。そして、あちらから、珍しい野菜の種を、送ってきておられます。そして、これを、そちらで栽培して、御地の特産品になさったらどうだろうかと、言うようなことが、手紙の中に書いてあり、その、種を一袋、同封して送ってきてございます。それを、竹内先生が持って見えましてから、椛目のなにかその、お野菜を作られるのに、これを作って頂いたらどうでしょうかというて、もってみえて、勿論その、説明書きが、横文字ばっかりで書いてございますから、私共じゃ、分りまっせんけれども、ま、大変珍しいお野菜らしいです。そして、こちらの土地にも合うだろうということが、手紙に書いてあるけれど、詳細なことは、その袋に書いてある横文字が読めなければ、分らんわけなんですね。丁度その時あの、(こうたけ?)さんところの、三番目の息子が、大学に行きよるのが参ってきておりましてから、それを見せました。ところが、なかなか意味が分らないらしいんですよ。それで、「僕これを、お借りしてもって帰る」と、そしてあの、参考書を引いて、そしてその、「先生にまた、改めて説明申し上げたい」ち、言うてから、それを借りて持っていったんですけれども、そん時に、話したことです。どんなに珍しいお野菜の種であっても、どんなにそれが、素晴らしいお野菜の種であってもです、「ね」。これが、何じゃろうかと言って、その、なにやらかにやら、分らなかったらもう、どうにもならん。「ね」。また、その栽培方法を心得ていなかったら、折角の、それこそ、海山越えて、えー、送ってこられたその、種物が、なんにもならないことになる。それが、ほんとにこちらの土地柄にも合うだろうと書いてはあるけれども、それを、やっぱり植えてみて、その、説明書きの意味を良く分らしてもろうて、ま、こちらにはない、その土地の、特産品にでもなるくらいのお野菜にです、栽培し上げていくということは、やはり、それだけのことを熱心になされなければ、出来ることではないようにですね、信心もやはり、同じことだと思うんですね。どんなに良い、御理解を頂いても、「ね」。この御理解を行じれば、この信心の種を蒔かしてさえ頂きゃ、必ず芽が出ると。芽が出たら、必ず花が咲くから、こういう手当てをしなければいけないといわれても、そうしなかったら、花も咲かない。花が咲いた。こうすれば必ず、こういう実りがあるということを、聞かせて頂いても、それを行じなかったんでは、「ね」。芽も出らんだろう、花も咲かんだろう、実も実らんだろうということですよ。私は、ここんところをです、ほんとにお互いが、銘々の、身内の信心に、生活させて頂くわけでございますから、ほんとの、信心生活になってまいりましても、実りのおかげの頂けるところまで、一つおかげを頂きたいもんだと、こう思うんです。
「んんー」。大阪の、田舎の方なんですけど、何とか言いましたねえ。奥平野かね、奥平野というところに、片島先生という、女の先生がおられた。お母さんがなかったから、片島幸吉という人を、お養子に迎えられて、ま、大変、まあ、神徳、学徳優れたお養子を迎えられて、現に、御ひれいたっておる教会でございますが、その、お母さんという方はもう、ほんとに、無学な方やった。ご主人が、なんかですね、小さい鍛冶屋ですね、鉄工所です。それで、ご自分も、ご主人のその、あれは何ち、言うですかねえ、その、トッテンカン、トッテンカンと、こちらにも、相槌をうたなならん人がおる。それをなさりながら、もう、それこそ頑丈な方だったらしいです。そしてから、鍛冶屋さんには、ふいごというのがある。「ね」。金をこう、焼くとき。その、ふぃごの真っ黒ススケとるところにですね、いわゆる、御神米をべたっと貼り付けてあるだけである。それを、朝晩、ふいごを押し押し、拝まれる。そしたら、神様が色々お知らせを下さるようになる。話を聞いて人が助かるようになる。そして、ああして、ちゃんとした教会が出来るようになられた。「ね」。形の上においてはです。どうしなければ、おかげは受けられんという事は無いですね。椛目の場合でもそうですね。私が、昔から、私の家族で拝まして頂いておった御神様が、そのまま、現在、やっぱり拝まして頂いておる。「ね」、お社が、立派になったわけでもなからなければ、中の御神体を変えたわけでもない。今度、あちらに御造営が出来れば、それこそもう、最高の、木材、いわゆる備州桧で、内殿が出来るらしいです。もう、これより以上のものはないようなもので、立派に出来よるわけです。親先生がおい出られて、そん時の御神事は、改めて、また、善導寺から、その、親先生がお祭りをして下さるという事でございます。特別の、もう、一信者じゃない、ま、教会としての神様をあそこに、お祭りするとこういう訳なんです。ね、ですから、この御神様を、あちらへ持っていって、その御神様を、なら、見事なその、備州桧の、で、それこそ、ヒノキの中に梱包するような、その、お社の中に、御移しもうしあげたからと言うてです。神様のごひれいが一段と輝くようになる、ということは分らない。「ね」。あら、椛目の時代のほうが、おかげ頂きよったという事になるかも分からん。「ね」。というて、私共の、心情としてですたい、「ね」。私共でも、その、良いお家に住んで、見たほうが気分も良いし、「ね」、神様でも同じこと、出来ることならば、その、備州桧の匂いのぷんぷんするような、社の中にお移しを申し上げたほうが、ね、有り難い。けれどもその、形式、形だけが出来たのであってはでけんのである。
どんなに、それこそ、ふいごの上の真っ黒ススケた様なところに、裸の御神米をぺたっと貼り付けて拝まして頂いても、助かることが出来る。どんなに、備州桧の、それこそ、お社の、ほんなら、ヒノキ作りの御神殿、お社の中にです、神様をお祭り申し上げたところでです、それだから、おかげを頂くという事では無いのです。「ね」。それの頂き方。いわゆる和賀心一つなのです。その和賀心一つであるということをです、お互いが、まあ、習わしても頂き、聞かせても頂いておるのでございますから、こげな事を言うたんじゃ、こげな事を思っておったんでは、こういう事をしておったんでは、よし、例え、備州桧のヒノキ作りの神様をです、そういうお社に、御移ししたって、同じだということを一つ本気で、わからにゃいかんと思うですねえ。今度、皆さんの御広前が、( ? )で出来る。見事な御広前が出けた、御神前がでけたと。たくさんの金がかかったと。「ね」。沢山の金をかけたからおかげを頂くのじゃないです。「ね」。結局は、私共一人ひとりの、その、和賀心一つでおかげ頂いていこうというのであるから。「ね」。その、例えば、神様のひれいを如何に表すか。いかにして、徳を受けるかということを、日頃頂いておることをです。「ね」、それを実際、自分が身を持って、行わしてもらえるか。習うた通りのことをしてです、その、例えば、ブラジルから来た種を、本当に蒔かせて頂いて、芽が出たならば、花の咲くところまで、花が咲いたなら、実が実るところまで育て上げさせて頂いて、初めて、特産品、御地の特産品にと、こう言われるようにです。「ね」。椛目ではない、合楽に移らして頂いて、合楽独特のです、特別のおかげの達成してくるようなおかげを頂くために、そのことをなしていかなければ、私は、おかげにはならないと思うんですね。
折角、朝の御祈念にこうして皆さんおまいりになる。まあ、いわゆる、形の上においては、最高の信心が出来なさるわけです。「ね」。御道の信心で、朝参りといやあ一番いわば、お参りの仕方、その、お参りの仕方っていうが、そのご信心としては、朝参りでもさしてもらいよるということは、いうなら、一番最高の信心をしておられる事である「ね」、ほんなら、朝参りをすれば、最高のおかげを頂けるか、というと、そうではないということ。「ね」、いうなら、朝参りが最高、いわば、備州桧の、お社を作ったようなもの。勿体ないでしょうが。折角、朝参りをさせて頂くんですから、言うなら最高の信心をさして頂くのでございますから、内容も、最高の内容の物になっていかなければ。「ね」。一月に一遍か、二編か、しかも、自分の都合の良か時に、お参りさして頂くという人がいる。ガバッと、おかげを頂いていくというたら、どうしますか。「ね」。百万遍例えば、お念仏唱えましてもです、一遍、お念仏唱えましてもです。「ね」。いわゆる、空念仏と、生きた念仏とがあるとするならばです。その、生きた念仏をです、私は、一遍唱えたほうが良いことになり、「ね」。しかもその、生きた念仏をです、百万遍唱えさせて頂くようなおかげを頂いて、私は、本当の事になるのではないだろうかと、こう思うのです。「ね」。真っ黒にすすけた、いうなら、ふぃごのうえに、裸の御神米をぺたっと貼り付けて、それで、ごひれいが立たして頂く、人が助かり、自分も助かりというような、おかげを受けられる。「ね」。という、いわば、素晴らしい信心がです。「ね」。ふぃごの上ではなくて、その、見事な御神殿、お社のなかに、お祭りさせて頂けれるようにならせて頂いたらです。いよいよ、おかげでございましょうが。「ね」。お互いの信心の内容というものを一つ、本当に、検討してみなければいけません。皆さん、例えば、朝参りといえば、最高の信心。そんなら、朝参りをしたから、おかげ頂くのじゃない。「ね」。百万円お供えすりゃ、こげな徳が受けられる。「ね」。それは、千円のお供えをさせて頂いて、返って、がっちり千円だけの徳を受けるならば、それのほうがまあだ良いじゃないですか。百万円のお供えを、無理してお供えさして頂いておる。ところが、それが、空だった。こげな馬鹿らしい話はないでしょうが。「ね」。がっちり、私は、本当に、中身のある、「ね」。そんなら千円お供えすることと、百万円お供えすることは、どっちかというたら、百万円のほうが、広くお役に立つことだけは、間違いないのですから。「ん」。その、百万円の中身が、がっちり、神様がそのままを、その真、真心を受けて下さるような、内容でなからなければ、馬鹿らしいでしょうが。誰に見てもらわなくても、誰に聞いてもらわなくても、神様が、がっちりそれを受けてくだされば。「ね」。もう、本当に、そこんところにです、いよいよ焦点を置かせてもろうて、「ね」。おかげを頂いていかなければ勿体ない。折角のお参りが。折角のお供えが。「ね」。それが、空念仏的なものであっては、惜しいじゃないかと。「ね」、そういうようなことでは、空念仏になるぞと。こういう信心さしてもらわにゃ、生きた念仏にはならんぞと、いうことを、朝晩ここで、いわば、聞かせて頂いておるのである。皆さんでは、分らない。それを丁度私が、横文字の説明が書いてあるその種袋を見たようなもの。それを、ほんなら私が、大学なら大学へ行っといて、それを読みきるから、「ね」。先ずは、参考書引っ張り引っ張り、それを皆さんに説明してあげておるわけなのであるから、それを、聞かなかったら、なあにもならないということ。「ね」。特別のおかげを頂きたい。本当に、よそにはないごたるおかげを、蒙りたい。本当に、自分の家の特産品にしたい。「ね」。それこそ、信心ばかりは、誰に観てもらうのじゃない、彼に聞いてもらうのじゃない。神様だけが、ご承知の世界にです。私共は、日々、信心の稽古をさせていただくのである。折角、最高の、いわば、備州桧で、えー、内殿、神殿が出ける。御神様は見事だけれども、中は、空っぽといったような、私は、神様にしてはならん。それには、本当に、内容を込めた、「ね」。椛目で、拝ましてもらいよった、「ね」。普通一般信者が拝んでいるような、小さいお社の中の神様でも、あれだけの御ひれいがいただけておると、いうなら、百円のお供えがでけた様なもの、今度は、一万円のお供えが出来るようなもの。そんなら、百円の千倍ですか、を、いわば、形が出来るのであるから、それだけの内容をこれに、込めさせてもらう時に、今まで、百円がたのおかげが、いわば、一万円がたの、おかげにも、徳にもなってくるのである。ところが、形は出来たけれども、それに内容が伴わなかったらです、神様が認めてくださらなかったらです。「ね」。むしろ、椛目で拝ませて頂きよった時の、神様のほうが新たかじゃったと言ったような事になっては、相すまん事になるんですからねえ。もう、銘々の信心をです、ほんとに、その、空念仏的な、信心に出していきよらせんかと。不思議にその、形が整うて参りますとですたい。「ね」。形、形にとらわれて、中身がおろそかになることがあるのですよ。「ね」。もう、ほんとに、どこの隅におるような、目立たんような、あの、ああして、折角、熱心に参ってきなさるが、あの人は、どこの人ですかと言うて、人の知らない時代のほうが、本当に、真心の信心が、一生懸命出けて、神様だけがこうやって見守ってくださるような、「ああ、あれは、どこそこの、何々さんです」と、言われるごと、なるとです。かえってその、いわば、あー、人数とか、体面とかを言うようになってくるとですたい、内容が、乏しいようになってくる。ただ、信心が、詳しゅうなってきただけじゃいかん。「ね」。兎に角、私は、生き生きとした、内容が、しかも、一よりも十、十よりも百というように、おかげを頂いていけれる、そのおかげを頂きたい。折角、朝参りをなさる、いうなら、最高の信心である、いうなら、最高の備州桧でお社を作ったようなもの。幾ら、毎朝、毎朝、人の真似のできんごたる、朝の御祈念にお参りさせて頂いても、そして、もう、朝の御祈念の中でしか味わうことの出きんぐらい有り難い、いわば、御教えを頂いてもです。その、御教えが、身にも、血にも、肉にもなっていかないで、ただお参りしとるだけならばです。もう、こげな勿体ない話はない。しかも、何がしかの御初穂を毎日お供えさせてもろうて、形だけが
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